杉浦 剛の記事

感情を文字に、言葉に表情を。

日は明け暮れる

今どこで誰が何をしてるか、それは知り得ない事。それは自然な事。

 

デジタル社会になって、それを知る事ができるようになった。

把握されるようになった。過去の行動までも調べられるようになった。

便利と思うか、厄介と思うか。

少なからず、人間の不安や心配は増した。疑心暗鬼にもなりがちだ。

 

時に知りたくない情報を目にしたり、しかし知らなければ話題に付いていけなくなって置いていかれる。

 

置いていかれる事に焦りは感じない。

置いてかれると思ってしまう時点ですっかり現代の人間。

時計を見なきゃ時刻がわからない。それが焦りになる。もうこんな時間だからと。

カネが無きゃ何も買えない。同じくどうにかして工面しないとって思う。

 

数字というものに人間は支配されている。

 

時間を忘れて日が暮れるまで水の流れを見て感じていたい。暗くなったら空を見上げて星を数えていたい。静寂が訪れたら目を閉じて、明るくなったら目を開き、呼吸を整えてから必要な活動をする。

そんなルーズな生活でも、基盤は作られる。生活リズム。

日々何かに狂わされ自分のリズムを作り出せないでいるのは、数字や人間関係のトラブル、大きなものは不安。

 

避けてきた。

それを避けて忘れられた時に純粋なものを見付けた。

あるがままでいる本来の自分は、とても穏やかだった。

一人でも、孤独にはならなかった。

 

9月は終わり、10月になる。

記憶に無い去年の10月、忌まわしい2年前の10月、本来の自分でいられた3年前の10月。

数字にするとわかりやすいけど、色々な事を思い出してしまう。

 

そんな日もあったな。

それくらいで良い。何月何日まで覚えてなくて良い。それくらい単純でいたい。

 

そろそろカメムシが飛来、すごいんだろうな。カメムシを丁重に処理する時期。それもまた面白い事。またこの時期になったかって。

俺の居場所は、まだ変わらずに居ても良い場所であるだろうか。

 

そんな気持ちになるのも、この時期。

行き交う人々に踏み潰され、悪臭を放ち死んだカメムシをちりとりに一掃。ごめんなと言いながら作業をしてた事は忘れない。

猿達がカメムシを食べているのを見た時は驚いた。柿の種みたいに。想像できない風味と味。それでも貴重なタンパク源だったんだよな。そう思うと自分にもできる気がしてくる。ミニトマトの奪い合い。少しでも寝坊するとまだ熟れていないものまで食べていく。それでも憎めなかった猿達。彼らが食べている木の実を見て、俺も食べてた。味は渋いだけでも、食べれないものでは無いんだと覚えた。人を見てるより、猿を見ている方が生きてく上で得られるものが大きかった。

たまには喧嘩もしたけど、どっちも怪我はしてないから、良しとしてた。

珍しいからって群れの中心のボスとは決して目を合わせてはいけない。それを彼らは攻撃の合図と判断して飛び掛かってくる。

 

常識は人それぞれ、猿それぞれ違う。

でも毎日見れば見るほど、似た構造の生き物だなって思って見てた。

 

猿も群れたがる。

人も一緒。

そっちの方が色んな面で強いもんな。

 

猿社会は強い奴がボス。

人間社会はそうじゃない。

 

なんかもう、考えたり感じる事が面倒だ。

思考が鈍くて鈍くてどうしようもない。

 

単純でいたい。

この記事を文章にできなくなっても、今の俺にはこのスマホのようなデジタルツールは息の詰まるような、苦しいものに感じる。無ければ無いなりの生活ができる気がする。

 

人間的な関わりや繋がりは減るだろうけど、それが元々の人間の生き方。

こうやって吐き出して呟いていられるのはありがたい事。

 

通信が早い遅いでイライラする人間でいたく無い。

車を走らせれば雨風しのげて歩くよりは早いんだと思えば、どれだけ前の車が法定以下で走ってようが、すごい事。そう思えばイライラしそうな自分がバカらしくも思える。

 

引き締めないと。10月は簡単に終われない。