杉浦 剛の記事

感情を文字に、言葉に表情を。

わからない。

糸がプツリと切れるという感覚じゃ無かった。

海底に沈んだ金属の塊を引き上げてるクレーンのワイヤーが切れたような、衝撃を伴う感覚。

 

そうなるともう、何もわからなくなるんだ。

思考が止まって身体が動くだけの人間と呼べないような物体になってる。

 

満月は、いつも血を騒がせる。

 

 

同じなんだ。

あの時は勝手に意識がどっか行ってくれて、生ぬるくて生臭い味で現実に戻ってしまった。しくじったのか、やられたのかわかんなかった。全然苦くなんてない、血生臭いだけの思い出。カメムシだらけの10月、肌寒くなってきた頃。

 

こっちは9月だけどもうその時より明らかに寒い。凍死するまではいかないけど。でもカメムシが大量発生しないのは綺麗な水辺が近くに無いって事。住宅街だからな。

 

カメムシらを掃除機で吸ったが最後、悪戦苦闘しながらも喜怒哀楽の毎日だった。

それが懐かしい思い出に変わってしまうのが嫌だ。仕事をしながら人の温かさを毎日感じていた。その時は確かに生きてる喜びの実感があった。元気にしているだろうか。

 

 

数年前のみ6月、富山のホテルに赴任。約束の時間に遅刻するバカ者。

でも仕事は一心不乱に、汗だるまになって働いた。終わったらそのまま温泉でサッパリ、それから川に行って自然の音に負けないように歌とギターの修行。滝しぶきで涼んだら夕日を見届けに海に行き、息を飲んで、バイキングで好きなもん好きなだけ食って、一服して、クソ暑い部屋に戻って真っ裸で寝る。

最初はクソ暑い部屋で干からびるかと思ったけど、段々と慣れて、仲間も増えて、ホタルまでたくさん見られるようになった。バイキングまでの空き時間は仕事場の事務所に集まってダベって、バイキング終わればホタル鑑賞して、みんなで花火もやったな。楽しいと、純粋に思った。

7月までそんな調子でみんなでバカやれてたけど、一人、また一人と任期を終えてお別れ。悲しいと、純粋に思った。

8月になると、俺も名残惜しいけど前の年に働いてた新潟のホテルに呼ばれて赴任。部屋は広いし自由だし、温泉もバイキングもあったけど、一人だった。寂しいと、純粋に思った。前の年は仲間がいて、それなりに楽しくできたんだけどな。

そんな回想してたらまだ車検の一度も迎えてないほぼ新車をバッキバキのボッコボコにしてしまった。フロントガラス破損、エアーバッグ作動、タイヤ四輪全パンク。エンジン死亡。

それでも駐車場にちゃんといた。何も覚えていない。どこに出掛けたのかも、どこでどうやって事故ったかも、どうやってここの駐車場まで戻ってきたのかも、何一つ覚えてない。勝手な判断、断薬による事件だ。もしかしたら誰か轢き殺してしまったかもしれない。誰かの家に突っ込んできたのかもしれない。それは今でもわかっていない事。とにかくレッカー呼んで運ばれていった映像だけ覚えてる。車を失った。コンビニまで車で約5分、真夏の道を30分歩き、戻る道も30分。このままじゃダメだと大手中古車販売店に連絡して、営業マンがやってきた。そこらへんも記憶が曖昧で気付いたらボロボロフォレスター100万円に印を押してある契約書があった。普通に考えたら15万くらいじゃないか?くらいの廃車寸前の状態。しかもターボのハイオク車って、めまいがした。燃費もクソもねぇなって、仕事場で元気に笑ってみせたけど誰も笑ってくれなかった。とりあえず、病院行けと。確かに。記憶の時系列もめちゃくちゃだった。

いつの間にか3日経ってたり、でも仕事はちゃんと行ってある。富山で一緒に働いてた仲間達が来てくれてたり。

任期満了で9月

また富山の同じホテルに戻った。今度は寮が完璧過ぎるVIP待遇。支配人も暮らしてる社員寮。トイレ、シャワー、洗濯機、IHキッチン、エアコン、6月〜7月を過ごした部屋は一体何だったんだってくらい違った。

そこで新たに翌年の6月まで実働、有給消化で7月半ばまで働いた。この期間は色々あった。仲間は違えど支配人に許可をもらって空室でクリスマス会、そして年末年始の休み無しのフル出勤。でも同じ時間を同じ相手と固定でしのいだ。この汗だるまに付き合わされてしまって、とても疲れただろう。だからこの年末年始を乗り切った時は、スーパー銭湯に行こう!と、謎のモチベーションで無事に乗り切った。約束通りスーパー銭湯に行き、すき家に行き、コメリに行き、等、それから徐々に親睦が深まった。部屋に来てもらってバカ話をしたりする事も増えた。アンチがある事ない事言ってても何故か俺の味方でいてくれた。俺はこの人に救われてる。そう感じた。周りにもいつも一緒だねって言われるようになって、意識するようになって、男女関係はまっぴら御免だと言ってた俺が、お付き合いをする事にした。それでも俺はお付き合いとは何かと自問自答しながら、これまでと何ら変わらず、仕事はしっかりやって、仕事終わりには仲良くダベり、夜はちゃんとお互いの部屋でゆっくり寝る。当時も、今思っても健全。堂々と言える。

付き合って何が変わったろう?付き合うって、何だろう?何か変わるかもしれないと思ったけど、やっぱりそのループになってしまった。

毎朝、おにぎりを作って一緒に出勤してくれた。朝、部屋に呼んでくれて朝食を用意してくれた。大変だった日はビールを持って部屋に来てくれた。もうほんと、感謝しかしていない。冬の花火は寮の前の橋で見た。ベスポジだったけど、寒かったな。

一ヶ月、二ヶ月、そして半年。俺は、深い関係には全く踏み出せなかった。お互い小学生のように、手を繋ごうとするだけで手汗が止まらなかった。これは本当の話。

これといった事も無いまま平和に時は過ぎ、俺は退職を決め、同時にお別れを切り出した。どうしても、このままではお互いの存在がわからなくなる。俺が一人の女性として見なければ失礼極まりない事だと思った。

そうして一人、リベンジの島へ行った。

7月半ば、新潟県佐渡市のホテルに赴任。

以前、移住先を求めて移住体験住宅まで借りて住み、仕事を見付けられずリタイアした悔しい思い出があった。

だから今度は、仕事を決めてから行って嫌なイメージを払拭したかった。

仕事は、初めての仲居業務。務まるのか不安も大きかった。でもリベンジの為なら業種は問わない。とにかくここで塗り替えるんだと意気込んでいた。同い年の先輩もいて、心強く、そしてテキトーなようだけど丁寧に作業を教えてくれた。フランクな人で色んな話もした。適度に息抜きしてないとやってらんないよって教えてくれた。最初から気が合う人で、随分助けられた。

佐渡はとにかく、絶好の釣り場が多いのに釣り人は少ない。だからいつでも好きなポイントで釣りができる。以前は真冬、風裏でアジをひたすら釣っていた。

今回は夏、冬とは真逆の穏やかな海風。休日は釣りパラダイスと考えてたが、そんな余裕は無かった。激務。7月にポツポツ休みがあったけど、覚える事だらけで休みの日も呪文のようにメモ用紙を繰り返し読んでいた。8月になり、遂に繁忙期がやってきた。ほぼフルタイムのフル出勤、とても時短勤務の話などできる雰囲気では無く、日々殺伐とした戦場。でも嫌にはならなかかった。仲間が増えて、少人数ながらみんな団結して必死で働いた。印象に強く残っているのは、大学生で、本当に短期の任期だったけど、とにかく一生懸命な女性がいた。人知れず涙を流していた時にバッタリと遭遇してしまった時もあった。まだ19歳、片や30過ぎた俺、見習わなければと思わせてくれる程、一日一日確実に成長していた。ミスをしても次の日にはしっかりカバーしてくる。仕事が終わり共同の洗濯機置き場で一服して終わるの待っていたらやってきて、わたし、海が好きなんです!と、はにかんで言っていたのがすごく残ってる。

8月の戦争を終えて、9月になるとバタバタする事も少なくなり、身体がよろよろする事に気付いた。体重は10キロくらい落ち、ベルトの穴は二つ開けて増えた。ちょっと、無理をしたかなと思いながら、任期満了。

翌日フェリーの予約をして、最後の業務を終わらせ、眠った。

しかし起きたら身体が動かない。あれ?と、フェリーの延期をした。それを何日か続けてしまい、ボスが部屋に来て怒られた。さすがにマズいと起き上がり、車に全部積み込み、ようやくフェリーに乗って新潟港へ。

しかし次も決めずにどうしたものかと、とりあえず富山に戻った。その頃俺はもう転出転入して富山県民になっていた。

まずお土産をこっそり、誰もいないテーブルに匿名で置き、いつもの川沿いで久々の車中泊。やっぱここが一番落ち着くなぁと、次の日もそこで寝た。それを一ヶ月くらい続けてしまった。食べ物にも困ってきて何日か水だけで過ごしてたら、また交通事故をやらかした。電柱にメリメリと。廃車にはならなかったけど、警察の聴取で川沿い暮らしが明らかにされて、市役所に連れて行かれた。

そこで三ヶ月間、雨風しのげて食事も提供されるという敷設に入所、でも何かがおかしい。明らかに10代半ばの活発な女の子、血の気の多い青年、杖をついてる老人、みんな揃っていただきます。朝6時に起床の放送、それからよく分からない所で社会とは、のような講義のようなよくわからない指導。

俺、雨風しのげればそれだけで良いんだけどな。食事にも顔を出さなくなり、団体行動も避け、一人で悶々としていた。

タバコを吸ってると一本くれやとたかられ、気付けばほとんど配給みたいになった。

外出記録簿に行き先、時刻を記載し忘れて戻ってきたら、いきなり蹴り飛ばされて詰め寄られた。忘れただけだと言っても聞く耳を持たない。勝手にヒートアップして翌日から周りの態度も急変。暴言も暴力も日常茶飯事。

タバコ、散々恵んでやったろうに。何じゃこいつら。と、入所者とも施設の人間とも険悪になって口も聞かなくなっていった。

 

10月夜の非常階段は、コンクリートは冷たくて、俺の血が生ぬるいだけだった。

 

現実に戻ってから、ここをどう出るか、それしか考えなかった。

北でも南でも良い、誰も追い付けないとこに行く。

生きるって事は

やるかやられるか、どっちか。

やらない=死

それは自分自身との闘い。

他人とつまらない勝負をする事は嫌い。

不戦勝だとか言われても嬉しくなんてならない。

ただただ申し訳なくなるだけだ。

 

そして去年、ボロボロフォレスターもまた廃車事故で失った。

その時は考え事をしてたのを覚えてる。

何を考えてたのかは、わからない。

下り坂の先、道路が右にカーブしてく手前にガードレールの端がやけに鋭く見えた。

真っ二つになるかなって一瞬思ったのかもしれない。