杉浦 剛の記事

感情を文字に、言葉に表情を。

別に

誰かに、自分に、どうでも良い事を問われたら、別に。と言いたい時もある。

機嫌が悪いとかじゃなく、それ今どうでも良くない?って時。

 

気合いで作り笑顔して、全ての問いに丁寧に受け答えしてたら、毎日が苦しいものになって、いずれ崩れてしまう。あれ?あの時は一体何て答えたっけ?あれ?この人の名前何だっけ?敬語だった?タメ語だった?

それら全部を抱え切れなくなって、覚えていられなくなって、当時の自分を見失ってしまう。その時のキャラを演じてた自分を。

言動や行動が矛盾してしまうから、信用を無くしてく。自信も無くしてく。

 

一番恐れるは孤独だと思ってて、そこに自分から入ってく。良かれと思ってやってきた事全て、自作自演と言われる。そして自業自得だってなる。

 

苦しい思い、もしくは楽しい気持ちを綴るには手記、もしくはこうやってブログなどのツールを使って文字にしておく。表現しておく。残しておく事で当時の自分の在り方、思考を思い出せる。

いつか見返せば、の話。

 

 

あくまで表現であって、主張とは違う。

心の内を吐き出してるだけ。見返す前提が原動力じゃ無い。

 

誰が何を苦痛に思ってるかとか、面倒だと思ってるかとか、もし思いの全てを言葉にして伝えようとしてくれても、自分も、多分誰一人として全部が全部わかる事ってできない。

だからもし自分ならって置き換えて考えるのが精一杯。そこで出てきた答えが、その誰かが伝えたい事と同じとは限らない。

難しい。言葉って難しい。意思疎通が簡単にできるようになるはずの言葉なのに、大事な局面ではすごく繊細でデリケートなもの。物事を左右してしまう元になったりもする。もちろん、見えない凶器でもある。

 

言うのは簡単。ましてこのネット上で匿名の波に紛れながらナイフみたいな文字をばら撒いたって、特定もろくにされず、そうそう罪には問われない。

 

人には思い出したくない、それでも消せない記憶があったりする。頭が割れるくらい苦しんでいても、それを見せようとはしたがらない。そこにナイフが降ってきて全てを浴びたら、作り笑いしてまた火種を作りまた疲れるのをわかっていながらこの現実を生きてくのがバカバカしくなる。誰がナイフの持ち主か特定しようとする気力も起きなくなる。

 

大まかに見て、人間は罪。

自分もその一つ。