杉浦 剛の記事

感情を文字に、言葉に表情を。

いつまで続けるかって?

忘れるまでだよ。

 

思い出すのを忘れられるような平和な日々を送ろうが、現実は刻一刻と金銭的に追い詰めてくるんだよ。入院する為にはカネが必要。保険適用になると言うから、市役所に行って聞いたら全然無理な金額。働きたいのに働けない、それでいて毎月の支払いも滞納せずいつまで続くかわからない入院生活が送れるような財力なんて無い。

 

そんな中で足を運んでカネを払って、減薬をしなければと急かされるだけの治療が待ってると思うだけで視野が狭くなるのは必然。

次も同じなんだろう。そしてその次もその次もその次もって考えるともう、死んでいなくなるのが最善の選択なんじゃないかと思ってくる。

このままだと通院もできなくなって、薬が無くなる。そうなったらどうなるか、ここ数年で実績は残してきた。檻にでもぶち込んでおかないと無関係な人まで巻き込んでしまう可能性だってある。

 

入院する為の費用、どうすれば確保できるか、まじめに考えた。

生きるなら自己破産する。

死ぬなら通院を止める。

これは慎重に、よく考えて決める。次の診察予約までに。

 

 

自分にこの先できる事が見えない、それを探してる毎日、たくさんの人に助けられてようやく生きられた気がする一日を取り戻してきた。寝て起きて食べる普通の事、そこに労働と賃金を組み込んで、元の普通を取り戻そうとしてる。借りたものを返しながら。

あぁー生きてて良かったーと感じられる日、それが漠然とした希望。

 

 

今、はいはいと減薬に従えば間違いなく崩れる。自分の奥底にいる自分が訴えてる。

崩れるのは簡単でも、元に戻るのって難しい。

信用と同じ事。

 

もしもまた崩れる時が来てしまったら、もう立ち上がる気が無い。直感的に思う。

こうなるんならもっと早く呼吸を止めるべきだったと、後悔するってわかってる。

 

だから今日も、とにかく拒む事しかできなかった。

医学的、心理的。自分にはわからない世界の圧力。

そんな理屈だけですんなり済まないものを、たくさん抱えながら今日も生きてる人がいる。

 

 

もし同じ状況だったらと、考える事ができない大人達が社会とは人間とはと偉そうに語ってる薄っぺらい現実。本当に嫌。

 

都合が悪くなった途端、自分の責任ではないとややこしい言い回しで正当化したかのように言い訳して逃げる。本当に嫌。

 

 

そして自分の事を自分でできない自分。

本当に嫌。