杉浦 剛の記事

感情を文字に、言葉に表情を。

苦くとも効かなければゴミ


冬が見えてきた。もうすぐここにも雪が降るんだろう。

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鍋でも叩いて呼んでやろうと思うけど、やらない。

 

両耳に栓をして、ドライバーで押し込んでけば頭蓋骨に固定式ハンガーフックができると思うけど、やらない。

 

 

わからない。

良い事、それとも

悪いこと。

 

 

 

道で誰かとすれ違う瞬間、身構えてしまう。ゴツいおっさんでも、めっちゃ可愛い女でも、挨拶をしてくれる小学生でも。

本当にごめんなさい。

 

猿の群れだ。

肩をいからせて四足歩行してる一番目立った猿の目を見つめたら、勢い良くこっちに向かってきて、そろそろ頭めがけて飛び掛かってくるであろう瞬間、右か左かを読んで思いっ切りスリークォーターでラリアットする。拳を握って。

血を吹き出し去って行く姿に、本当にごめんなさい。

 

目を合わせたのは俺の方。

売ったのは俺で買ったのはそっち。

俺は猿が嫌いじゃないくて、むしろ好きな動物。こないだ民家の柿の木に登って、一生懸命揺らして実を落としてたのを見た。

もう少し海沿いだったら、リアル猿カニ合戦が見れたかもしれない。ってか見てて思ったのは、カニが相当なダメージを受けてしまうという事。毛蟹とか、タラバ蟹ならまだ大丈夫だと思うけど。

んー、生まれて初めて見た。

 

だけど今回は別、目の前でエキサイトして戦闘モード。今顔を傷だらけにしてたら仕事の面接に行った時まず指摘され、具体的に何があったか説明したら最後、まずご縁が無かったということでとなるだろう。

色んな事を頭で妄想してたら、やっぱり牙を剥いて走りってきた。きっと顔面目掛けて飛んでくると思った俺は猿が飛んだ瞬間左に傾けて右手スリークォーターで思いっきりやった。拳を握って。

 

同じ色。

赤い血を流して足早に去って行く後ろ姿に、ごめん。

もしも逆を選んでしまってたら、かじられるなり、首の骨でもへし折られるなり、それはその時じゃなきゃわかんないけど、ごめんね。

 

帰ってきて腕を洗って傷から血が流れてくのを見て、今頃あいつどうしてるだろうって考える。恐くても立ち向かわなきゃならない理由になる位、俺が威嚇してると思われたんだろう。

そしてびっくりしただろう。今もきっと痛んでるだろう。ごめん。

目を合わせなければ良いのは知ってる。それでもこの寒空の下、何かを探して歩くその貪欲な目を見たかった。

結果、一つの生き物に痛い思いをさせた。

 

 

もし言葉が通じたなら、去って行く後ろ姿に謝って、何でも一緒に食べたかった。そこらの木の実でもカメムシでも、俺は全然良いから、共有したかった。

 

 

教えてくれ。

知らない事を。食べられるものを。そっち側の森の景色をさ。何色に見えてんだろう?

 

猿はバナナを食べる。

簡単に思い付くのはそれくらいなもんで、実際にバナナなんてこの宇奈月の町には自生していないと思う。

観光客等から貰えた者はその味を知っていても、知らない猿の方が圧倒的に多いはずだ。

 

 

俺がどこかで一日働けば、そこそこの数のバナナは買える。

一本ずつ、食べさせてあげたい。もちろん一緒に俺も一本食べるよ。

でも、それは人と動物との境界線を越えてしまう、迷惑極まりない行為なんだって。

だから熊も人里へ…って聞くけど、原因は人間が作ってるんだと思うなぁ。畑の場所も景色も昔のままでも、もっと山の奥のほうで人間が足を踏み入れてしまったら、熊だって恐いと思うはずだ。長くはここにいられないかもしれない、どこか安心して暮らせる場所をって探し歩いたら人里だったっていうのは、違うかな?

 

俺は自然と調和して生きたい!だなんて言ったら、勝手にどうぞって人、そんなん絶対無理に決まってるって人、普通で当たり前に考えてみろって人、そうだよな。

 

でも人の立ち入らない場所、まだ立ち入ってない場所って、そこで暮らす生き物にとっては居場所で、自然の摂理、本物の循環なんだよなって思う。

 

創る。生み出す。それを発明という。

教科書に載って、世界的に有名な人間として紹介される。すごい人なんだよって。

 

じゃあ、代償は。

その薬が『いつか世界を救うかもしれない』と言えば。どこか希望溢れるメッセージに聞こえてくる。

 

それで、マウスを何匹死なせた?

救うのは世界じゃなくて、人間だ。

人はなぜ文字と言葉を使えるんだろう。

 

全ては伝える為。

 

文字だけで伝わる人もいれば伝わり切らない人がいて、そこに素直な感情を言葉に込めたら、より伝わるものだと思っている。どうしても伝わらない人も中にはいる。解り合えないのは、悲しむ事でも怒る事でもなく、お互いの当たり前を言っては見せ、知ってもらう。そこまでできて初めて知り合いとなれるんじゃないかって思う。見たことあるとか、どこかで会ったことあるとか、それはまた、違う表現になるんじゃないかなぁって思う。

 

こんなんだから、誰を何て呼べば良いのかわからなくなって、そもそも友達って何?俺にはそんな人がいるのか?とか、ややこし過ぎるこの思考回路を一度リセットしたくなる。

だから頭を鍋でカンカンカンと叩いてみても、うるせぇと言われるだけ。

 

つい去年の夏、わいふぁいというものをWi-Fiと知ることができた。

今はペイ。ペイ、ペイ、ペイ…なんでもかんでもペイなるものが目に映って、一体何者かまだまだ理解できそうにない。

 

 

まだ俺が生きる事ができるのなら、数えきれないくらい素敵な思い出、流れ星にアッ!とか、大切な人に触れてドキドキした事、ガツンと掛かった魚達の事、家族が増えて成長を感じられた喜び、親に迷惑かけ続けてても勝手に感謝だけしてる事、言い切れない位恵まれた瞬間、想いがあったけど、その反面の絶望して立てなくなる闇の思い出がどうしても消えてくれない。

 

忘れられない清らかな思い出に名残惜しさを感じながらも冷静に、全て削除、とっとと忘れちまえよと思って、何年経った?初期化して、昨日までを忘れて、また一から何もかも教えて欲しい。

 

心身共に不自由な人を不自由から解放する為、痛かったものが痛くなるなる為、苦しかったのが楽になる為、薬は開発される。

あー治って良かったな。の裏にある事情まで考えてしまうときりが無いから、喜んで、笑って、残りの時間を生きてと思う。

 

俺は、ちょうど目の前にいた猿に教えてもらおうとしたけど、ダメだった。解り合いたいって思ったのは俺だけで、ただただ恐くて驚かせて、痛い思いまでさせて、ごめんな。

 

あぁ、やけに今日は薬が苦い。