杉浦 剛の記事

感情を文字に、言葉に表情を。

した側された側

苦難の時、誰にも打ち明けられないまま悩んでいた時、事情を知らない人の一言で救われる時がある。覚えているのは言われた自分。

相手はそんな事言ったっけ?ってだいたい覚えてない。

 

救いたくて手を差し伸べ、その人を助けられた。それは覚えているはずだ。

でも相手は助けられたのでは無く助けようとしてくれた事に解決しなければならないと悩みが増しているかもしれない。

 

あの時は、本当にありがとう。

そう言って、何の事?なんて返される、それで良いんだと思う。

した方は覚えて無くても、された方は覚えている。

いじめ、悪口もそう。その場の空気やノリで言った事を次の日には忘れてる。そんなもんだ。言われた側はいつまでも深く刺さったまま、なんとかしようと一人で苦しんでるかもしれない。そういう時って、不思議と誰にも言えなくなってたりする。そんなもんだ。

 

情報が溢れて、何を信じたら良いかわからなくなる。今を生きる全ての人に当てはまる事。自分の全身で確かめるか、インターネットで調べるか、それは自由。ただ鵜呑みにして周りに伝えたら、そうらしいがそうであるになってく。なんでだろうね。

 

疑ってかかれじゃないけど、それって本当に本当か、誰かに伝える前に今一度それについて深く確かめてみて欲しい。

 

伝える為の言葉は、簡単に使える。簡単だからこそ難しくもある。捉え方一つで意味が変わってくる。

 

口論になり感情的になって死ねと言って、その通り死んでしまったら、後悔しないだろうか?簡単に使った言葉で一生苦しむ事もできてしまう。

言葉。

本質を表現する為に使う為には常に冷静でいなければならない。それもまた難しい。

言い過ぎてしまったと思ったら、すぐに謝る潔さは全然カッコ悪くなんてない。

言ってしまった以上やるしかないって、無理だと気付いたら潔くできないと認めるのは全然カッコ悪くなんてない。

 

取り返しのつかない事になる前に、プライドは捨ててしまおう。自分らしく、そんな作ってしまったキャラを守り続ける事で人は消耗してしまう。周りにはそう思われていたい欲求が生み出した自分なんだ。らしさってやつは。

今の自分を素直に客観視できたら、本当の自分らしさってもんが見付かるかもしれない。

 

相手に嫌われないような、気分を害さ無いような言動や行動、それは自分を守る為の術かもしれない。場面によっては必要なのかもしれない。

 

今、それがバカバカしくなった。

無意識に機嫌を伺い、見えない何かを恐れ、八方美人と良く言われた。仕事ならともかく、それ以外の場面でも。

 

嫌われたって良い。ただの開き直りなのかもしれない。それでも今日を生きるので一杯一杯になった時、固定された概念の中で生きていた自分が頼りなく、別に守らなくても良い事にまでこだわって生きてた事に気付いた。

 

自分の言いたい事を言うには勇気が要る。そして説得力が無ければどれだけ綺麗な言葉を並べても胡散臭い。深くまで刺さらない。

 

これから俺が言葉にして残していく事は非常識でタブーだらけかもしれない。それでも本音を言うだけ、より現実的な表現にするだけ。

嘘か本当か判断するのは自分じゃない。

理解者とは自分の全てをわかってくれる人じゃない。

自分にとってはわからなくても理解しようとしてくれる人をそう呼びたい。それをお互いが喜べるようでありたい。良き理解者だと。

今そんな関係でいられる人、これからなれる人、その人達の為にしか行動できない。今まで出会った人、そしてこれから出会う全ての人間を大切にとは思えない。消えない過去にも感謝はしてる。これからに活きてくる良い勉強になったと。だからそれ以上に深く考えるのは止めて、良い関係でいられる人を大切に思っていたい。

この思考が偽善か本性か自分にはわからないんだ。