杉浦 剛の記事

感情を文字に、言葉に表情を。

感覚の修正

塩と砂糖。

パッと見、白い粉。どっちがどんな味か確かめてみてもそれが本当にそういう味なのか、誰かと共有してみなきゃ、わかんないの。

 

塩分と糖分、どちらも偏れば身体に悪いらしい。それでも飲み込む時点では気付けない。後ほど症状となってそれを知る。でもどっちを頬張ったか、わかんないの。

 

 

危ないよとか、良くないよとか、言われて止めても納得できないもんじゃないのかなぁ?自分で気付いて、それから判断する。それが大事だと思ってる。

誰かに何か相談を持ちかけられた時に俺は、こうするべきだ!とか、良いか悪いか断言する事ができない。むしろ傷付けるような事を平気で言ってしまったりして、やはり罪悪感。なんで言葉を持ったんだろうって。

 

養うべき家庭のため、身を削り心を削りこれで良いんだと、これが自分のやらなきゃならない事だと決め込んでしまう、それが責任だと俺は思わない。目に見える怪我より、目に見えない怪我の方が致命的な時もある。

家庭って一人じゃない。だから一瞬に歯を食いしばってくれる人がいる事を忘れない事。感謝していられたら、言葉にしなくてもお互い頑張れると思ってる。

 

それじゃダメなんだよねーって言われると、自信を失う一方で、いつからか踏み出すのは右足からか左足からかって、どうでも良い事にすら躊躇するようになって、どっちにしたところで歩いてしまえばたくさんアリを踏み殺しているんだとか、余計な事を考えて罪悪感だけになる。

 

いや、なっていた。

 

今、希望が生まれた。思考が変わって、道を堂々とまではいかないまでも歩ける。あれを買いに行かなきゃって、目的があれば。

 

創れば良い。

普通の感覚で生きる自分を。道行く人間を観察しながら、真似をすればその中に紛れられる。悲しいと思う気持ちを無にして、割り切って生きるしかこの先を生きる事ができないと気付いた。

 

 

人間になった。もう一度、人間でいる自分にできる事をやってみる。たかが知れているのは承知の上でも、やりたい事をやるためにやりたくない事もやる。それをやりたくない事をやればやりたい事ができる。って言い換えて、自分の歩調で歩く。ブレないリズムを求める。追い越されても焦らずマイペースで進む。変な意地は捨てて、一つ一つやってみようと、最近思えるようになってきた。

 

 

喜べ、自分。